のっきーの凸凹ブログ

生きづらい系キノコがゆるゆる頑張るブログ。

善行のハードルが高いという話

善行積むの無理ゲー……という話をします。

先日、電車でちっちゃい子が疲れて泣いていて、お母さんも困ってるようだったから、声をかけて席を譲ったんですよ。そうしたら席を立つ時によろけて、隣の人の足を踏んじゃって、「いった!!!」と言われて慌てて謝ってひとまず席は譲れはしたんだけど、なんかその場の空気がおかしくなって、降りる駅まで居た堪れないまま終わりました。消えたい。

昔から良かれと思ってしたことがことごとく裏目に出る。ボランティアでしくじった時も思ったけどつくづく善行に向いてない。のっきーのような奴は、困った人がいても下手に手を出さず静観しているのが最善なのかもしれない。100%の善行なんてあり得ないのはわかってるんだけど、のっきーの場合良かれと思ってやったことが善50悪50とかになりがちで、なんなら善40悪60とかちょっと悪寄りになったりして、いっそ何もしない方がプラマイゼロで平和なのではないか。動かなきゃいいことも悪いことも起きないから……。

でもそれは良くないか。やらない善よりやる偽善っていうもんな。やった方がいいな。一番ダメなのは、善行をたくさん積んでいるつもりで、陰で同じくらい人を困らせていることに気づかないで、「こりゃ来世は大金持ちの家の猫になってモンプチとちゅーる食べ放題っしょ!」と調子ぶっこいたまま死んであの世で閻魔様に「功徳ポイントゼロです」と言われて「来世は野良猫です」と言われて呆然とするパターンだと思う。そうならないように謙虚に生きるのが大事なんだと思う。具体的には人の足を踏まないようにまわりをよく見て動くことですね。いいことする自分に頭沸かないようにしよう。

地獄と極楽があったらやだなあ……。ポイント絶対貯まってないもん……。

仏教の説話で、弱った老人に何も捧げられるものがないウサギが「せめて私を食べてください」と炎の中に身を投げる話があるじゃないですか。老人の正体は神様で、ウサギは炎に焼かれることなく、みんなのお手本として月にその姿を映してもらえるようになったというお話。何度読んでもウサギは一線超えすぎだと思う。人一倍信心深ければ無能でもワンチャンある、誰にだってできる施しはあるという教訓なんだろうけど……。ファーストウサギが命を放り出す前例を作っちゃったら、後に続くウサギはみんなそれがスタンダードになっちゃうじゃん?ウサギにセルフバーベキューしかねえって踏み切らせた周りの空気も良くないよ。イヌやサルも何かしらウサギに声をかけてお手伝いさせるとかさあ……。ウサギはウサギで声かけにくい空気出してたのかもしれないけど……。そんな衣食住放り出してまで信仰にのめり込む精神状態も健全じゃないと思う。でも人間って心を救ってくれるものにはつい金も命も削っちゃうものか。酒とかゲームとか推し活とか。昔から変わらないんだなあ。

のっきーみたいな社会不適合者から見てるからウサギに感情移入しちゃうのかな。普通の人なら「無能ならせめて自己犠牲するのはしゃーない」みたいな感想になるんだろうか。だとしたらちょっと切ない。

トップ画の閻魔様は足利市利性院の閻魔大王座像をベースにいろんな閻魔様を参考に描きました。あの世も女性活躍推進法的なものが施行されてそうだから、ワーママ閻魔様です。遊びも仕事も全力で、若い頃は筋トレで磨き上げた美ボディを引っ提げ血の池ナイトプールで鬼どもの視線を釘付けにしていました。お休みの日に家族で須弥山にグランピングに行くのを楽しみにしています。

試し読みのページでウサギの話が丸々読めるよ。元になったインドの仏教説話より、こっちの今昔物語集版の方が圧倒的にウサギが可哀想で神様も動物も性格悪いんだけど(カチカチ山のたぬき並)、なにごとだ。平安時代はそういう露悪的なのが流行ってたのかな?もしくは作者の趣味……?